2024年8月8日木曜日

「血の日曜日」事件から「一歩前に出る」(24.8.9)

 人権から世界史を再構成する。それは何を意味するか。

1、ひとつは、人権運動は非政治的行為でありながら、政治の世界に途方もない政治的効果をもたらす可能性を持つものである。この「人権と政治の関係」についての冷徹な認識を持つこと。
なぜなら、人権は原理的に人々を「敵と味方」に分断しない。その結果、すべての人たちを巻き込む可能性がある。ガンジーの非暴力・不服従運動や、キング牧師の公民権運動のように。
この意味で、人々を「敵と味方」に分断しない人権は人々を「敵と味方」に分断する政治の世界にとって「異端」である。過去に、宗教の世界で異端がどれほど反発と迫害を受けてきたかその歴史を知る者にとって、人権が政治の世界の住民たち(政治屋・職業的市民運動家)の神経をどれほど逆なでにし、彼等の内心にどれほど「反発と迫害」を引き起こすものか容易に想像がつく。

この意味で、人権運動に参加する者は、己の人権運動が政治の世界の人間からどう思われているか、その実情に対して、常にリアルに認識しておく必要がある。

2、もうひとつは、人権運動は非政治的行為でありながら、結局のところ、政治の世界から命令=服従の権力的作用を抜き取り、人権の観点で営まれる非権力的な作用だけに変容させるという「人権の永久革命」とも呼ぶべき政治的な目的を持つものである。これが権力作用にしがみつく、世界史が始まって以来の、世の政治家・官僚どもの猛反発を買うのは必至だ。

この意味でも、人権運動に参加する者は、自分たちの非政治的な人権運動がもたらす政治的効果・意味について、政治の世界の人間がどう思っているか、その実情に対して、常にリアルに認識しておく必要がある。

そのリアルな認識が欠けていたために、折角の人権運動が頓挫してしまう。

その痛ましい実例が、1905年のロシア革命のリーダーであるガボン()、ガンジー、キング牧師。彼らが暗殺されたのは決して一握りの過激派のせいではない。政治の世界からの猛反発に由来するものだ。この意味で、マンデラが暗殺されなかったのは奇跡に近い。

)「血の日曜日」事件についての考察>こちら

 人権運動に参加した積りだった僧ガポンは、己の人権運動がロシア皇帝ら政治の世界の住民たちにどのようなインパクトを与えるか、その影響力の大きさを冷静に、客観的に測定できないでいた。
その結果、ロシア皇帝らから「血の日曜日」という発砲=迫害を受け、いっぺんで人民のロシア皇帝に対する信頼は失墜し、政治的大混乱を引き起こし、1905年のロシア革命となった。この人権運動→政治的大混乱→1905年ロシア革命→反動期という歴史のダイナミズムの過程で、ロシアの中に人権運動を根付かせる絶好のチャンスがあったにもかかわらず、ガポン自身も、さらには他の多くの社会改革者たちはその可能性の芽を摘んでしまった。その負の遺産は120年経った今もなお、プーチンの独裁国家として継続している。

 ガポンの可能性について>こちらより

ガポンには致命的に足りない点があったーーそれは、己の「人権運動=非政治的行為がいかなる政治的効果をもたらすか」という認識がなかったこと。人権行為という全ての人を巻き込む可能性を持つ非政治的アクションが、社会的な関心、支持を集めた時、それは、原理的に、人々を「敵と味方」に分断する闘争に明け暮れてきた政治的人間の目からみたら異端の人間たちの異端行為のはずである。だから、政治的人間にしてみたら、これは異端との闘いなのだ。そこで、人権活動を行う者は、この異端行為がどれくらい政治的人間に苛立ちを与えてしまうのか、どのような影響とリアクションをもたらすものか、それを冷静に測定してみる必要があったが、ガポンはそれをしなかった。そして、亡命した彼が、亡命先で、もしこの認識に気付き、その中で、上記の意味での「人権活動の再発見」をしたならば、彼のその後の人生と社会的影響は大きく違っただろう。しかし、まもなく彼は暗殺され、その機会は永遠に失われた。彼の挫折の責任は大きい。

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